$$\left( 1+\frac {1}{n}\right) ^{n}$$
上の数式のnを無限に大きくしたときの値がeという自然対数の底なのだが、
この定数は、自然科学において頻繁に登場する定数です。登場の頻度はπとどちらが多いか、良い勝負です。πの定義は非常に直観的で易しいため小学校で習うのに対し、eの定義は微分を伴うため高校で初めて登場します。
いま、関数$$y=a^{x}$$をxについて微分してみます。
すると、例外なく$$\frac {d}{dx}\left( a^{x}\right) =ka^{x}$$という形になります。
つまり、指数関数の微分(増加率)は常に関数の値に比例するのです。
いくつかのaについて定数kを具体的に計算すると、a=2.5と3の間にk=1となるちょうど良いaがあることが想像されます。これを詳しく計算するとa=2.71828・・・となり、これは、正に上記のネイピア数です。
[『理系人のための関数電卓パーフェクトガイド』遠藤雅守著から引用
カテゴリー: 今、考えていること
複利のおそろしさ 割り算7
複利で増加していく量をxとしてみましょう。xは時間の経過につれて、どのように増大していくでしょうか。ある瞬間にxが増加する割合は、そのときのxに正比例します、すなわち、
$$\frac {dx}{dt}=ax$$
上記の式は微分方程式です。
の関係であります。利息の話なら、あるときの元利合計xに比例して利息が付き、元利合計が増加します。つまり、dx/dtは、元利合計の増加率(単位期間に付加される利息)を表わし、aは利率を、xはその元利合計を表わしていることになります。
$$\frac {dx}{x}=adt$$
上の式の両辺を積分します。
$$\int \frac {dx}{x}=\int adt$$
微分方程式を解いた結果が下記の式です。
$$x=Ae^{at}$$
これが、tの関数としてのxの形です。Aはもちろん、t=0のときのxの値です。
『微積分のはなし(上)』大村平著から引用
この本の最後「微分は、どう変化しているか
積分は、その結果どうなったか」
を調べるためのテクニックだと書かれています。
この一連の思考パターンを、頭に叩き込むようお経のごとく何度も何度も唱えてみようと思い、投稿させていただきました。
「微分」は割り算を発展させたもの 割り算その6
以下は、蔵本貴文さんの著書『学校では教えてくれない!これ一冊で高校数学のホントの使い方がわかる本』の引用文です。ご紹介させていただきます。
第3章「本当は単純! 微積分」の3節に「微分は「すごい割り算」だった!」には微分の本質は「傾きを求めるための割り算」と超簡単に紹介した後、単なる割り算では求められない傾きも、微分なら求められると「すごい割り算」の意味を発展させておられます。
そう、上の題名をわたしたちに理解させるのです。一度読んでみてください。難しいと敬遠していた「高校数学」が、著者のことばでいうならば、
「なぜ、一見難解で奇妙な数学が生まれたのか、その必要性や使い方は、ばっちりわかります。こうしたことは、教科書にはほとんど書かれていませんが、単なるパズルが長い年月を超えて語り継がれたのではありません。そこには明確に人間の活動に役立つ何かがあるのです。
それを知っておくことの方が、計算方法を学ぶより、よっぽど大切です。なぜなら、今は計算だけならコンピュータがやってくれますから・・・。
実は、数学を使って飯を食っているプロというのは、世の中にはたくさんいます。例えば私も、その一人です。私は半導体メーカーでモデリングという仕事をしているエンジニアです。モデリングというのは、半導体素子の特性を数式で表す仕事です。
私は数学を、例えば製品を設計するなど、具体的な対象を通じて見ています。すると、教科書に載っている美しさを重視した抽象的な議論と違う、もっと具体的なイメージ、数式が見えてくるのです。
方程式1つとっても、教科書には抽象的な数式しか書かれていませんが、私たちには仕事の上で具体的な何かを想定して使います。その、具体性が数学の理解を楽にしてくれるのです。
「最初から学校でこういった意味を教えてくれれば、どんなにすんなり理解できただろう」
仕事を通じて数学を見つめ直す中で、何度そんなことを思ったことでしょうか。それは、あまり外に出ることのない、エンジニアの持っている暗黙知と言えるものかもしれません。
さて、この本はそんな私が高校数学の暗黙知を、たった一冊で理解してもらおうというものです。
上記の記載のご本 著者蔵本貴文氏
高校数学は、わたしたちも諦めなければ理解できないことではなく、「明確に人間の活動に役立つ何か」であることをこの本は教えてくれます。
ところで、新型コロナウイルスで世界中が混乱している最中思うことは、髙橋洋一先生が書いてる『ド文系大国日本の盲点』です。わたしたちは数量的に物事を考えることが苦手というより、拒否する態度をとることを反省しなければなりません。もし、今回も政府がこの弊害から逃れることができなかったら、経済政策の失敗は経済的な弱者に強烈な生活苦を強いるし、人を殺すと、先生は言われています。高校数学はわたしたちを救う力にもなるのです。
「利子率」は現在財と将来財の相対価格である。割り算その5
「現在目の前にある1個のリンゴ」と「将来得られるはずの1個のリンゴ」を考えよう。リンゴそのものが物理的に同一のものであっても、通常はこれらは同じ価値のものとは評価されない。通常は、「現在の1個のリンゴ」のほうが「将来の1個のリンゴ」よりも価値が高いと評価されるのである。
それには、いくつかの理由がある。まず、消費者の側で、現在のリンゴを将来のリンゴより高く評価する心理的な偏りがある。個人の生涯が有限であることが、このような偏りを生む基本的な理由だろう。一方、生産の面でも、現在のリンゴを高く評価する理由がある。
それは、現在の1個のリンゴの種から、将来時点で多数のリンゴが収穫できるからである(こうした事態は、投資から得られる生産物について、一般的に期待されることだ)。
以上のことから、現在のリンゴを単位にとって表わした将来のリンゴの価格をpとすれば、pは1より小さい値となる。「将来のリンゴの価格がpである」とは、「将来のリンゴ1個が、現在のリンゴp個と同じ価値である」ということを意味する。したがって、将来のリンゴ1/p個が現在の1個のリンゴと同じ価値になる。
ところが、通常の財の価格と異なり、将来財の価格は、p=1/(1+r)で定義されるrで表わす習慣がある。したがって、上のことをrを用いていえば、(A)「現在のリンゴ1個と将来のリンゴ(1+r)個とが同じ価値だ」ということになる。あるいは、同じことを、(B)「将来のリンゴ1個と現在のリンゴ1/(1+r)個が同じ価値だ」といってもよい。
(A)の表現をする場合には、rを「利子率」(interest rate)とよぶ。(B)の表現をする場合には、rを「割引率」(discount rate)とよぶ。そして、(B)のことを、「将来のリンゴ1個の『割引現在価値』(discounted present value,あるいは、単に『現在価値』)は1/(1+r)個である」という。
以上で重要なことは、「利子率(あるいは、割引率)は価格である」ということだ。利子率は、現在財と将来財の相対価格なのである。そして、「将来財の割引現在価値が1/(1+r)個だ」というのは、「ミカン2個がリンゴ1個と同じ価値だ」と同じようなことをいっているのである。ただし、用語が特殊なので、特別のことを述べているかのような錯覚に陥り、しばしば混乱が起こる。
『金融工学』著者野口悠紀雄、藤井眞理子のご本の引用文
ファイナンス理論入門には、欠かせない『割引現在価値』という概念の説明文です。じっくり味わいたい含蓄のある内容なので、全文引用させていただきました。野口先生ありがとうございました。この理解が、わたしたちの『金融リテラシー』の基礎になるとわたしは考えています。金融電卓を使えば、より理解が進むと思います。
ギャンブルに負けない方法 割り算その4
この表題の割り算の数式は、以前に紹介させていただいたと思うが、量子力学では我が国の第一人者である大栗先生の『数学の言葉で世界を見たら』というご本からのものです。これは、第一話の「不確実な情報から判断する」という中に書かれたセクションからの引用。
「2つのことが独立に起きる確率は、おのおのの確率の積になる」という性質を応用して、ギャンブルで負けない方法を伝授しよう、というくだりである。
$$P\left( m,N\right) =\frac {1-\left( q/p\right) ^{m}}{1-\left( q/p\right) ^{N}}$$
上記の確率の公式は、いろいろなことを教えてくれる。
すぐにわかることは、「ちょっとでも不利なギャンブルは、してはいけない」ということだ。
同じようなことは、君がこれから生きていくうえでいろいろな時に経験するはずだ。
確率pのほんのちょっとの差が、大きな違いを生む。よく、「毎日の積み重ねが大切だ」といわれるけれど、確率P(m,N)の公式を使うと、それがどれくらい大切なものか、数字としてはっきりわかる。
それが数学の力だ。
『数学の言葉で世界を見たら 父から娘に贈る数学』大栗博司著
是非、皆さんもお読みになってください。
twitterでも「数学は不確実な情報から判断するときに、とても役立つ道具です。ネットに不確実な情報が溢れているいま、子どもと一緒に読みたい一冊」と投稿されているsunaoさんにいいね!をしました。また、Tsuyoshi Ideさんは「超面白いのでおすすめ。子供にドヤ顔で数学史のエピソードを語れるようになると思う。」とおっしゃています。私も、同感です。
政府の税外収入「シニョレッジ」割り算その3
政府が発行する国債を日銀が引き受ける場合は、日銀の納付金を下記の式の左辺で算出できる。(現在から)将来の納付金をすべて足した額が税外収入となるのである。また、それは増刷された紙幣の総額(M)と等しくなっていることを表している。これは、髙橋洋一先生のご本で『経済のしくみがわかる「数学の話」』から引用したものである。私たちは、国債は借金だと認識しているが、政府は 発行された国債の総額 分を返済する必要のない『お金』として手に入れることができる権利を持っている。これを通貨発行益『シニョレッジ』という。このお金を使う良し悪しによって、国民の生活に甚大な影響を及ぼしてきた過去がある。今、正に同じような過ちをまた、犯してしまった責任は、現政権にある。
$$\frac {r\cdot M}{1+r}+\frac {r\cdot M}{\left( 1+r\right) ^{2}}+\frac {r\cdot M}{\left( 1+r\right) ^{3}}+\ldots =\frac {r\cdot M/\left( 1+r\right) }{1-\frac {1}{1+r}}=M $$
r=利子率=金利
お金の時間価値を表す、『割り算』その2
$$S=M\times \frac {\left( 1+i\right) ^{n}-1}{i} $$
S:終価
M:年価
n:年数
i:利子率
上の式は年価(M)から終価(S)を求める式で、年金終価係数といいます。
お金の時間価値を計算するには、現価(P)と終価(S)、年価(M)の概念を理解することが大事です。
特に年価(M)はある利子率を前提にして現価や終価を毎期末の均等払いの値に換算した平均値であり、年価(annual value)と呼ばれています。 時間価値を加味した平均値であるため、単純な平均値と区別する意味で年価という別の名称が与えられているわけです。
現在価値~資金と時間との関係~内藤伸浩氏の引用文
世の中を『割り算』で表現する、その1
先ずは、最初に人生設計の基本公式からご紹介しよう。
これは、山崎元先生のご本に掲載されているもので、私たちが把握すべき「必要な貯蓄額」を算出する式です。
『割り算』で構成されています。下に書かせていただきます。
$$ S=\frac {x\times Y-P-\frac {A}{b}}{\left( \frac {a}{b}+x\right) \times Y}$$
S :必要貯蓄率
X:老後生活費率
Y:手取り年収
P:年金額
A:現在資産額
a :現役年数
b :老後年数
「人生とお金の計画」は、自分の現在の状態をざっくり把握して、必要な貯蓄額を現実に落とし込み、それが貯められているならだいたいオーケーである、と考えて下さい。つまり、自分のお金の全体像をざっくり把握して、いつまで働き、働きながらいくら貯めていけばいいのかを計算し、それが実行できていれば、あとは自由でいいのです。
『お金で損しないシンプルな真実』(人生を自由に生きたい人はこれだけ知っていればいい)著者 山崎元 より引用文
測定、評価、数量化
科学的評価へのアプローチ『評価と数量化のはなし』というご本を紹介しよう。著者大村 平先生は「はなしシリーズ」として数々の名著を残されていて非常にわかりやすく書かれているのでお勧めです。この本は私がPFP(パーソナルファイナンシャルプランニング)をするうえで基本に返ってものごとを考えるときに、原点を思い起こさせてくれるので、必ず読み返すことを心掛けています。特に、「まえがき」と第1章の「数字で示せというけれど」の箇所は非常に含蓄があると思っています。
それでは、上記の言葉を定義しましょう。
「測量」とはものごとの性質をなるべく客観的な数値としてとらえるための行為とされます。
「評価」とは測定という行為のほかに価値判断を含んだもの。
「数量化」とは文字どおりものごとの性質を数量化すること、つまり数値で表すことです。
ここで、注意を要する点は以下、引用文
測量(量的記述)は非測量(質的記述)より一般的にずっと科学的です。したがって、科学的評価を志すなら、ぜひとも質的記述を数量に直したいものです。ここに、数量化の技術の重要性をかいまみることができるではありませんか
数量化という用語は、単純な物理的手段では数値として表すことができないか、あるいは困難であると思われていた性質を数値としてとらえることを指すのがふつうです。たとえば、「幸福さ」を数値で表す試みなどが、数量化の典型的な例のひとつです。
「数量化」がどうして必要になってきたか素直に理解できること請け合います。ぜひ、お読みください。以下、引用文です。
社会が極度に複雑化し多様化してきた現在では、いかに有能な経営者や行政官であっても、全体を見通すことができず、経験にものをいわせた直観では判断できないことが多くなってきました。そこで、直観に頼ってではなく、科学的な根拠にもとづいた決定をするために、費用や効果を分析する手法がつぎつぎに開発されています。そして、これらの手法を使って私たちの幸福がより大きくなるような決定をくだすためにも、どうしても幸福さ加減を数値で表すことが必要になります。
ここで、ちょっと、今回の「消費税増税」は私は、国民を不幸に陥れる政府の愚策だと指摘したいと思います。この本の内容ではありませんから断っておきます。
もう一つ最後に、「時間」についての記述を紹介します。示唆に富んだ内容なので引用文を紹介します。
時間は、だれにとってもかけがえのないものです。金銭などのように取り戻すことは決してできません。ですから、他人の時間を無駄に浪費させることは、殺人にも匹敵する罪悪だと思うのですが、現実には、金銭を盗むことは罪悪とみなされ相応の制裁を受けるのに、他人の時間を潰すことに対してはひどく寛容なのはなぜでしょうか。
さて、人命はかけがえのないものなので、時として神聖にして犯すべからざるものとみなされます。けれども、時間だってかけがえのないものですから、人命と同じように神聖であるはずです。しかるに、時間のほうは各人が切り売りして経済的な価値に変換しています。そうであれば、人命のほうも経済的な価値としてとり扱っていい理屈ではありませんか。こうして、命や心の価値を哲学的にではなく、もっぱら経済的な価値としてとり扱うという、この本の趣旨にご賛同いただけることとなりました。
マネーの正体は数学
わたしは小学、中学までは算数数学という科目は嫌いではなかった。
というより好きだったし、体育と数学は人より優れていた。
しかし、高校数学に入った段階から好き嫌いとは別の感情に覆われてしまったように思う。
それはどうしても理解できないから諦めてしまうという挫折感を味わったのだと思う。
高2のとき文系理系のクラス分けがあり、文系に入らざるを得なかった頃から、自分は文系人間で
化学、物理。数学は不得意科目で理解できないものだとレッテルを張ってしまったのだと思う。
私たちの学年は6クラスあり6組が理系クラスで秀才、後のクラスは文系で強いて言えば数学を必要としない
学部大学を目指すクラスとなったのではなかろうか。この分断された世界は未だに尾を引いている。
当時の経済学部を専攻しようと思うものは文系の世界に属していたと思う。今、思えば何故だろうと思う。
世間の風潮が経済学部に進学するときは数学は必要ないと考えられていたのだろうか?
確かに、私は大学入試試験には数学が必要なく経済学部に入学できたのです。
大学に入っても数学は必要ではなかったことを思い出します。記憶に残っているとしたら、サムエルソンの「経済学」
という分厚い上下2冊の本や経済史の授業、行列式を使った経済数学科目もあったとは思いますが、学部全体を眺めてみると
「マル経」「近経」に分かれていたようです。そういった世界ですから数学は必須ではなかったのです。
そして、大学を選んだ時と同じように就職にも文系人間が入れる世界の門を叩くことになったのでした。
経済を理解したいとう気持ちはずーと持ち続けていましたから証券会社を選んだのは不思議ではないと思います。
証券会社に入ってからも数学の素養がないからということで仕事に支障をきたすようなことはありませんでした。
私の証券会社時代は、バブル経済をもろに経験することになったのですが、世の中の仕組みをわかるどころではありませんでした。
日々の業務に追われ、流されている自分を横目で見ながらどうすることもできず、数学に出会う機会は全くありませんでした。
そして、私が会社を辞める5、6年前だったと思いますが市場調査部の方だったと思います。その方が講師で「オプション」を
勉強する機会があったのですが、その時に強烈に覚えていることは高校のときに味わった挫折感がトラウマとなっていたのです。
あの数学に対する拒絶感をまた味おうなんてと思いました。いま、考えてみるとこの直感は正しかったと思います。
なんと、「数学」そのものに私は出会ったのですから。
前置きが長くなって申し訳ありませんでした。マネーの正体は「数学」でした。その話に戻りましょう。
高橋洋一先生は『数学を知らずに経済を語るな!』とプラトンが言ったのを捩ったのでしょう、というご本を書かれています。
私のようにド文系人として半世紀あまりを生きてきたものが、言うのもなんですが、あえて言いますと
世の中の仕組みを数学で理解するほうがわかりやすいのではなかろうか?ということです。
経済のしくみをわかりたいという欲求が数学という道具を使って探求できるという感じではないでしょうか。
高橋先生は高校数学ぐらいまでのもので経済を解き明かしているようなことを言われています。
また、最近、読んだ西成活裕先生(渋滞学という学問の確立者)は中学数学までで十分だということを言われています。
突然ではありますが、マネーの話に入ります。「ビットコイン」が誕生したのは、謎の日本人(?)サトシ・ナカモト
の論文がメーリングリストに投稿された、2008年11月1日であるとされています。これは同年9月15日のリーマン・ブラザーズの破綻による
金融危機の連鎖、日経平均が一時7000円を下回ったなど、悪夢のような10月がようやく終わった、
その次の日ということになります。
どうして、経済オンチの日本人が数学の塊とも言っていいほどの「マネー」を誕生させられたのでしょうか?
私は、どうも腑に落ちません。
世界の中の日本を特異な国として見ていた当時の状況がなせる業ではないかと思っています。
現に物理学者にはノーベル賞を受賞しているひとは何人もおられますが、経済学では一人もいないではないですか。このアンバランスを
日本人以外の人が揶揄してつけた名前ではなかろうかと思っています。
私たち日本人は数学という道具を通じて世の中を見るのに不慣れです、というか、教育体制が時代に合っていないのではないでしょうか?
最近は、小学生にも株取引を教えているそうですが、まったくもっておかしなことです。そういう時間があるのならもっと算数や数学
を教えるべきです。なぜ、数学を学ぶのかを理解させるには実社会でどのように数学を使っているのかがわかるようなカルキュラムに
変えてはいかがでしょうか? 小手先の諸策では「金融リテラシー」の普及は望めず、「仏を作って魂入れず」の故事ごとく悪弊が横行する
だけです。この過ちは消費税導入後の経過をみると歴然としています。どうして、私たちの国は何度も同じ過ちを繰り返すのでしょうか?
どうも、世の中のことは自然にあるもので私たちがどうしようもできないものとして諦め、受け入れるのではないでしょうか?
わからないものを安易に肯定し、論理的に物事を考え抜く力がないのではなかろうか。そして、そのことが逆に、見えないものに畏怖の念を持ち、
忌み嫌う風潮を温存させているのではないかと心配しています。
野口悠紀雄先生や髙橋洋一先生は理系の分野から経済へ転身された方々なので、数学の目を通じて世の中を
見ているのだと思います。私の例では何なのですが、高校時代の同年配の方々を推測するには8割がたは文系で
その後の人生で数学に出くわすことは滅多にないのではなかろうか思うのです。また、あったとしても、私と同じように
わからないものには蓋をして見てみないふりをしているのではなかろうかと危惧しています。
私は敢えて言いたいのです。私たちにとって生活に欠かせない「マネーの本質が数学である」ということを!
さあ、どうですか? 見てみないふりは出来ますか? みなさん、できないはずです。一緒に数学にもう一度
勇気をもって出会おうではありませんか!
見てみないふりをすることはもう出来ないでしょう。
最後に、数学を通じて経済を見たとき、今度の消費税増税は絶対にさけるべきです。
我が国の歴史を振り返ると「大東亜戦争」、「バブル崩壊後の失われえた20年」、・・・。
そして、今回の「消費税増税」。何回誤った道を選択すれば気が済むのでしょうか?
これは、ひとえに「数学力」の欠如にほかなりません。